親と私の終活の話、時々自分語り

親が終活を始めたために悪戦苦闘する娘の話です。葬儀社のこと等、あまり表に出ないことについて書いてみようと思います。

結局、帰る

12月に私のみが帰省することにしました。

可能なら母と役所に行って高額療養費制度についての説明を受けてきます。とにもかくにも動かなければお話にならない。

母が元気なうちに、あれもこれもと思うのは、母の老いを実感しているからでしょう。離れて暮らしている分、何かあってからでは遅すぎるので。母はその辺、考えているようでどこか呑気なもので、「その時」が来たら私は随分とバタバタしなくてはならないのだと思います。

母自身も老いを実感しつつも、どこか他人事なのは仕方のないことなのでしょう。ですが遺される側としてはそれでは困りますので。

冬の帰省で一通りのことが片付くといいのですが。


台風のことといい、母の終活といい、悩み事が尽きませんね。愚痴っぽくなってしまいます。

台風被害

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以前、普通に雨が降った日。壁紙がふにゃふにゃになりまして。管理会社に連絡したら「外壁がヒビ入ってるので水漏れするんですよね」というトンデモ返答がありましてね。大家さんには修繕義務があると思うのですけど、放置されているようです。

雨のたびにふにゃけては、雨が止むと元に戻るという壁紙の状態で過ごしていましたが、今回の台風19号でとうとう剥がれました。連絡はしてたんですが、「明日か明後日」ということで即日対応はしていただけませんでした。まあ台風の規模が規模だったしとは思いますが、それにしてもです。修繕義務を怠った上でのこれなので、昨日は殆ど眠れずに雨漏りしないかどうかを見張ってました。お陰で眠いったら。

対応次第では引っ越しも検討しなくてはならないかもしれません。外壁を直してくれるのかどうか、この壁紙の修繕費をこちらが負担するなどということがあれば、住み続けるのは難しいかもしれません。

ああ、お金がー(´;ω;`)

保険の話

さて、終活の話に戻ります。

心配事が一つ増えたわけです。

高額療養費制度というものがあります。保険に入っていれば一定額以上の医療費を払わなくていいという制度です。ただし、収入によって上限は違いますし、あくまで保険適用内での治療に限られるので、先進医療を受けたいなどの希望がある方には向かない制度ですが。

母がおそらくこの制度について無知なのです。知らないだと思います。お陰で、ニュースにもなっている、問題のある某保険に加入したままなのです。

解約をするように伝えても「入院した時にどうするのさ」と馬鹿の一つ覚えのように繰り返すだけです。

母は延命治療を望まない人です。先進医療など必要もなく、最期まで保険適用内の治療で終えられることでしょう。であれば、正直なところ問題のある某保険に加入していなくとも、治療費は事足ります。

問題のある某保険なんかに加入したままのほうが心配なので解約してしまってほしいものですが、どうやら治療費のことが心配なようです。

役所に行って担当部署で高額療養費制度についての説明を受けてきて欲しいのですが、一人でそこまでやる人でもなく。変なところで出不精というか面倒臭がりというか。

これは一度帰省して一緒に役所まで出向かねばならないようです。私も詳細な手続き方法までは知りませんので。後期高齢者という世代の母の高額療養費制度はまた違うようなことも書いてあったりするので私も専門の方から話は聞いておきたいところ。

医療費の心配をして保険に入ることは全く問題ないのですが、トラブルを起こしたとニュースになっているものに入り続ける理由が理解できませんし、高額療養費制度の範囲で済みそうな母が保険にお金を使っているのが理解不能すぎます。

何にしても、お金の話というのは生きてるうちにしてしまわないと。母は妙なところで節約家で、真冬の豪雪地帯でストーブを全く使わずに過ごしていたり、換気扇も回さなかったりと、不思議な生活をしているので、そんな状態なら保険だなんだと言っていられる余裕はないと思うのですよね。

お金の話は生々しくてあまり話したい話題ではないですが、次の帰省ではもう少し福祉について知っておいてもらって、保険も胡散臭いものに入りっぱなしにしていないようにと伝えないといけないようです。

短大での話

無事に入学しましたが、中学校のクラスメートは仲が良かったので同窓会を頻繁に開いていたようでした。私は斎藤に会いたくなくて行っていませんでしたが、やはり斎藤はそこでも面白おかしく有る事無い事を触れ回っていたようです。

短大でのクラスメートに中学時代のクラスメートがいましたが、やはり避けられました。というより、最初から態度がおかしかったので近寄りませんでした。もう幸せだった中学時代の思い出もぐちゃぐちゃです。済んだことなので仕方ないと思いましたし、斎藤が嘘を言って回っていたことは分かっていたので私は胸を張るのみでした。ただ、露骨に自分を避けてくる人間が同じ空間にいるというのは気分の悪いものでした。私のことは避けるくせに、そこそこに成績の良かった私のノートは回ってきたら利用するというクズっぷり。コイツはなんなんだと思いましたが、相手にする価値もないような相手なんだろうと割り切りました。

相変わらずの自尊心のなさ、自己肯定感のなさからの人見知り、高校3年間ですっかり出来上がった人間不信でしたが、なんとか過ごすことができたと思います。友人と言えるクラスメートもできました。

しかし、一度壊されたものは元に戻らないのだなあと思い知ったのも短大時代でした。私のことを何も知らない人のほうが多い学内で、それでも他人に怯えることは治りませんでした。自分から話しかけることなんてできもしません。ひそひそ話は全部が自分の悪口に聞こえます。

治そうと努力はしたつもりでしたが、「もうこれは一生物のお付き合いだな」と苦笑いしつつ受け入れざるを得なかったのはしんどいことでした。

悪魔

高校に入学して、人見知りなりにさて頑張るかと思っていました。クラスに中学時代のクラスメートを見つけ、嬉しくて話しかけました。返ってきたのは、汚いものを見るような目と反応。訳が分かりませんでしたが、きっと彼女(今後斎藤と書きます)は以前から私のことを嫌っていたのでしょう。中学時代の「みんな仲良し」の雰囲気の中では言い出せなかったのでしょう。

寂しかったですが、嫌われることには慣れていました。それほど斎藤に思い入れもありませんでした。仕方ないと諦めました。ただ、それでは済まなかった。

後に知ることになりますが、斎藤は入学してすぐに「あいつは黒魔術をやっている」「変わり者」「頭がおかしい」などと言いふらしていたそうです。黒魔術って。何を幼稚な。一笑に付しましたが、それを面白がったのか、本気で信じたのか、斎藤の話を聞いて私を避けているクラスメートにも呆れ果てました。

嫌いだと言いながら、その嫌っている相手の話題を延々としている姿は滑稽でした。こちらを見ながらニヤニヤ笑ってはコソコソと何かを話す姿は不愉快ではありましたが、「結局、私に興味あるのかい?」と大変不思議な気持ちになったものです。

こうして入学後すぐに無視と陰口という虐めが始まったわけです。暴力こそなかったものの3年間にわたる陰湿な虐めは、元々母からの虐待で壊れていたメンタルにとどめを刺すものでした。私にとっての斎藤は悪魔そのものでした。未だ忘れようとしても恨みすぎて忘れられない存在です。

2年生でのクラス替えで、物好きな子が私と仲良くしてくれました。明るく誰とでも話せるその子は私にとっての救いにはなりませんでした。その子のいた仲良しグループに斎藤がいたわけで、そこまで心を許すこともできなかったものです。その子本人は誰とでも分け隔てなく接していただけなのでしょうが、斎藤と近しい子は警戒の対象でしかなかった。

他のクラスに数名友人ができました、それは純粋に救いでした。

とにかく虐めなんかに負けない、私は絶対に学校を休まないと意地になっていた私は、修学旅行さえも休むという考えがありませんでした。どこのグループも私を入れてくれるわけがないのに。そう思っていましたが、クラスのやんちゃなグループが修学旅行の時に仲間に入れてくれました。私と話せば話すほど「あいつらの話と違うじゃん」と渋面を作る彼女たちに何か?と尋ねましたが「知らないほうがいいよ」と言われました。斎藤たちの噂話があくまでも噂話で真実ではないと、違うということを私と直接関わったことで理解してくれたようで、ここでも救われた思いがしました。見た目だけで「怖い人たち」と判断していた自分を恥じました。修学旅行後も何かと一緒にいてくれた彼女たちには感謝しかありません。

こうして無事とは言えないまでも、卒業を迎えることができたわけです。やっと斎藤が私の世界からいなくなると思うと幸せでした。

短大に行きたがっていた斎藤が成績悪くて行けないのを尻目に短大に無事合格した時はすうっとしましたが、私が行きたかったのは短大ではなくて看護学校でしたから、左手が治っていれば、こんな手でさえなければと何度も悔しくて泣いたものです。

幸せな時間

今思い返しても、学校生活で唯一穏やかだったのは中学3年間です。

授業中にこっそり手紙のやり取りをしたり、放課後に教室に残ったお喋りをしたり、ごくごく普通のことができた3年間でした。

クラスメートには恵まれていたと思います。

これまた詳細を覚えていないのですが、笑って過ごしたことばかり記憶にあります。とても楽しかった3年間、解離性障害のせいで大半のことは覚えていなくとも「幸せだった」という事実は覚えています。大切な思い出です。

ただ、小学校で仲の良かった子に突然嫌われたのはこたえました。なんらかの原因はあったのでしょう、しかしもはやクラスも違っていて何が原因だったのかは思い当たりません。ある日突然軽蔑の目を向けられたのはショックでしたが、話しかけても無視させるような状態で理由を聞くことは叶わなかったですし、それは心残りです。彼女にとっては私と仲良く過ごした小学生時代のこともなかったことになっていたのでしょう。悲しいことでしたが、クラスが違ったことだけが幸いでした。こうして書き出してみると、彼女がいたクラスの子からは嫌われていたのでした、何らかの噂話でも回っていたのかなと今では思います。


多少のトラブルはありつつも、高校に入学することになり、このまま人付き合いもうまくいけるんじゃ、と思っていました。中学校の3年間は若干ではありましたが、私に自信を取り戻させてくれました。もはや存在さえ見失っていた自己肯定感も顔を出してくれました。まさか、中学校のクラスメートの中に悪魔のような子がいるなんて思いもしないで。

左手のこともあり、今までおかしいと感じていた自分の精神状態を、どこの誰に相談していいのかも分からず、見て見ぬ振りをしながら誤魔化しつつ過ごしてきました。中学校3年間で「もしかしたらこのままマトモに生きていけるのかもしれない」と思った私が、高校入学で人嫌いに拍車がかかります。

左手の話

閲覧要注意です。


忘れもしません、中学一年生の3月3日。

スキー学習の日でした。風邪を引いて休みました。休まなければ何かが違ったのでしょうか。


お酒を飲んだ母に口答えをしました。些細なことだったと思います。

てめえ、この野郎!!そう叫んで台所へ駆けて行った母が手に取ったのは包丁でした。そのまま私へ突進してきました。

狭い部屋の中を逃げに逃げました。酔ってフラフラな母は私に追いつかないと分かると包丁を私に向けて投げました。とっさに庇ったのは顔でした。その左手に包丁が刺さりました。刺さった包丁を抜いて放り投げて泣きわめく私の姿に、手からボタボタと流れ落ちる血に、正気を取り戻したのでしょうか、救急車!と叫んで外に飛び出して行きました。信じられないことですが、我が家には当時、電話がありませんでしたので。

この日のことは何故かはっきり覚えています。

母が家中からかき集めてきたバスタオルが次々と血まみれになっていくのを他人事のように眺めていた自分を。もはや痛みすら感じなくなっていた自分を。

結局、酔った母では電話での要領を得なかったのでしょう、救急車は来ませんでした。近所の車屋さんに無理矢理に頼み込んで近所の内科へ連れていかれました。縫合などをしつつ、母が「この子が言うことを聞かないから」「この子が悪いんだから」という言葉に、医師は「お母さんの言うことは聞かなくちゃダメだよ」と言いました。何故でしょう。言うことを聞かなければ包丁で刺されても文句は言えないんでしょうか。とても悲しくなったものです。縫合が終わった頃、警察が来ました。母は救急車ではなく警察を呼んでいたようです。

母の事情聴取が終わった後、「お母さんを訴えるかい?」そう尋ねられました。「お嬢ちゃんが訴えないとね、お巡りさんはお母さんを連れていけないんだ、訴えなさい」とても哀れんだ目で「訴えなさい」と繰り返す警察官に、私は無言で首を横に振り続けました。諦めて「まだしばらくは訴えられるからね」と言い残し、警察は帰って行きました。

母を警察に引き渡す覚悟もなかったのに、家に帰って母と二人きりになると体が震えました。怖い怖い怖い。

それでも、流石に酷いことをした自覚はあったのか、母はひたすらに謝罪を繰り返すばかりでした。

謝罪なんか受け入れられないという気持ちと、でも捕まっちゃうのはなという気持ちと。私は養護施設に行きたくはなかったのです。母が捕まれば養護施設行きです、2歳の時にあれだけ嫌な思いをした場所に戻る、それは嫌だった。

母の「もうお酒はやめるから」という言葉を信じたかった。ですが、これだけのことをしておいてなお、約束は破られました。母はお酒をやめませんでした。


包丁で刺されたため、傷はいつまでも膿んでいました。そのせいかと思っていました。

左手の違和感が消えないのです。1ヶ月経っても2ヶ月経っても、指が動かしにくい、指先の感覚が変な感じがする。3ヶ月後、母が通っている整形外科に連れていかれました。包丁が刺さった時、すぐにここに連れてきてくれていればよかったのです。そうしたら完治していた可能性もあった。

母はおそらく、自分のかかりつけの医師に「酔って娘を包丁で刺した」という事実を知られたくなかったのでしょう。それでも私の左手がいつまでも治らないので仕方なしに連れてきたという感じでした。北海道で一番とまで言われていた整形外科医です、一目見て「神経切れてるよ、これ。なんでもっと早く連れてこなかった!!」と凄まじい勢いで母を罵倒しました。そしてポツリと言ったのです。3ヶ月じゃもう元に戻らねえな。

元に戻らないって何?私の左手はもう使い物にならないってこと?

しかも内科医が下手な縫合をしたせいで皮膚が引き攣れていると言われました。何故、うちに連れてこなかった!と医師が母を怒鳴りつけているのを遠くに聞きながら、元に戻らないってことは看護師になる夢は諦めなくちゃならないってことだよね、と呆然としました。

夢を見ること、そしてそれを叶えることがまた夢でした。しかし、夢も希望も未来も、ここで断ち切られました。

悲しくて耐え切れずに、相変わらず酔っている母に「もうお酒はやめるって言ったのに!!」と泣きながら叫ぶと、「うるせえな、今度は殺してやろうか」と言われました。

学校での人付き合いでの悩みなんてお話にもならない。私はここで決定的に病んだのだと思います。