左手の話
閲覧要注意です。
忘れもしません、中学一年生の3月3日。
スキー学習の日でした。風邪を引いて休みました。休まなければ何かが違ったのでしょうか。
お酒を飲んだ母に口答えをしました。些細なことだったと思います。
てめえ、この野郎!!そう叫んで台所へ駆けて行った母が手に取ったのは包丁でした。そのまま私へ突進してきました。
狭い部屋の中を逃げに逃げました。酔ってフラフラな母は私に追いつかないと分かると包丁を私に向けて投げました。とっさに庇ったのは顔でした。その左手に包丁が刺さりました。刺さった包丁を抜いて放り投げて泣きわめく私の姿に、手からボタボタと流れ落ちる血に、正気を取り戻したのでしょうか、救急車!と叫んで外に飛び出して行きました。信じられないことですが、我が家には当時、電話がありませんでしたので。
この日のことは何故かはっきり覚えています。
母が家中からかき集めてきたバスタオルが次々と血まみれになっていくのを他人事のように眺めていた自分を。もはや痛みすら感じなくなっていた自分を。
結局、酔った母では電話での要領を得なかったのでしょう、救急車は来ませんでした。近所の車屋さんに無理矢理に頼み込んで近所の内科へ連れていかれました。縫合などをしつつ、母が「この子が言うことを聞かないから」「この子が悪いんだから」という言葉に、医師は「お母さんの言うことは聞かなくちゃダメだよ」と言いました。何故でしょう。言うことを聞かなければ包丁で刺されても文句は言えないんでしょうか。とても悲しくなったものです。縫合が終わった頃、警察が来ました。母は救急車ではなく警察を呼んでいたようです。
母の事情聴取が終わった後、「お母さんを訴えるかい?」そう尋ねられました。「お嬢ちゃんが訴えないとね、お巡りさんはお母さんを連れていけないんだ、訴えなさい」とても哀れんだ目で「訴えなさい」と繰り返す警察官に、私は無言で首を横に振り続けました。諦めて「まだしばらくは訴えられるからね」と言い残し、警察は帰って行きました。
母を警察に引き渡す覚悟もなかったのに、家に帰って母と二人きりになると体が震えました。怖い怖い怖い。
それでも、流石に酷いことをした自覚はあったのか、母はひたすらに謝罪を繰り返すばかりでした。
謝罪なんか受け入れられないという気持ちと、でも捕まっちゃうのはなという気持ちと。私は養護施設に行きたくはなかったのです。母が捕まれば養護施設行きです、2歳の時にあれだけ嫌な思いをした場所に戻る、それは嫌だった。
母の「もうお酒はやめるから」という言葉を信じたかった。ですが、これだけのことをしておいてなお、約束は破られました。母はお酒をやめませんでした。
包丁で刺されたため、傷はいつまでも膿んでいました。そのせいかと思っていました。
左手の違和感が消えないのです。1ヶ月経っても2ヶ月経っても、指が動かしにくい、指先の感覚が変な感じがする。3ヶ月後、母が通っている整形外科に連れていかれました。包丁が刺さった時、すぐにここに連れてきてくれていればよかったのです。そうしたら完治していた可能性もあった。
母はおそらく、自分のかかりつけの医師に「酔って娘を包丁で刺した」という事実を知られたくなかったのでしょう。それでも私の左手がいつまでも治らないので仕方なしに連れてきたという感じでした。北海道で一番とまで言われていた整形外科医です、一目見て「神経切れてるよ、これ。なんでもっと早く連れてこなかった!!」と凄まじい勢いで母を罵倒しました。そしてポツリと言ったのです。3ヶ月じゃもう元に戻らねえな。
元に戻らないって何?私の左手はもう使い物にならないってこと?
しかも内科医が下手な縫合をしたせいで皮膚が引き攣れていると言われました。何故、うちに連れてこなかった!と医師が母を怒鳴りつけているのを遠くに聞きながら、元に戻らないってことは看護師になる夢は諦めなくちゃならないってことだよね、と呆然としました。
夢を見ること、そしてそれを叶えることがまた夢でした。しかし、夢も希望も未来も、ここで断ち切られました。
悲しくて耐え切れずに、相変わらず酔っている母に「もうお酒はやめるって言ったのに!!」と泣きながら叫ぶと、「うるせえな、今度は殺してやろうか」と言われました。
学校での人付き合いでの悩みなんてお話にもならない。私はここで決定的に病んだのだと思います。