親と私の終活の話、時々自分語り

親が終活を始めたために悪戦苦闘する娘の話です。葬儀社のこと等、あまり表に出ないことについて書いてみようと思います。

I井さんのおばさん

悲しいことばかりでもなかったということで。


いじめこそありませんでしたが、人一倍大人しく自分から輪に入っていこうとはしないからか、からかわれることはありましたし、クラスメートからは距離を置かれているなと感じる小学校生活。それでも仲良くしてくれようとする子は何人もいました。結果としては私があまりに相手とうまく話せないため、大半の子は離れていくということを繰り返しながら、少人数ではありましたし親友などとは言えなくともなんとか仲良くしてくれる子がいるかなという状態で送る学校生活。常に相手の顔色を伺って遊ぶのは負担でしたが、母から虐待を受けている私は相手の顔色を伺うことが癖になっていました。正直なところ誰かと一緒に遊んだ事実は覚えていても、それがどこの何ちゃんだったのかも覚えていません。昔のことを人並みには覚えていません、これが虐待による解離性障害だと知るのはずっと後の話です。それでも何とか覚えている記憶が楽しいことばかりでなく悲しかったことも混ざっているのがやってられないなあと思うところですが、人の脳はそこまで都合良く出来ていないのでしょう。

さて1年生で失敗した分、2年生で下手にキャラを作ってみたりもしましたが、無理は続かないし失敗するものです。「こんな性格だったっけ?」と1年のクラスメートに言われて、そうだよなあ、違うよなあと、頑張る方向性を間違えていることに気付きました。結局、人見知りで教室の隅でひっそりしている子供に逆戻りです。

2年生の担任はとても親身になってくれる先生でした。我が家の事情を知っていたのかどうかは分かりません。ですが、一度だけ学校から出された宿題の絵日記で「お母さんはいつもお酒を飲んで寝ています」と書いた覚えがあります。母にはこっ酷く怒られた絵日記です。あれは2年生の時だったのかもしれません。お子さんを預けている保育所がたまたま我が家の近くにあったことも理由なのでしょうが、頻繁に家にも来てくれたり、私の図工の作品を大仰と言っていいほどに褒めてくれて展覧会のようなものに出してくれたり、何かと気にかけてくれました。自分みたいなダメ人間を気遣ってくれる人がいる、というのは思っていた以上に救われることでした。お陰で2年生はなんとか無事に乗り切れた1年になりました。


そして一番大きかったのは同じ住宅に住むI井さんのおばさんの存在です。

お孫さんが二人いたのですが、何故だか私のことを可愛がってくれました。孫が男の子だったからかもしれません。

母は夕方には必ず仕事を終えていました。帰宅する時は焼酎を買ってきています、帰宅したら何よりもまず四合瓶の一気飲みです。そんな飲み方ですから一瞬で酔うわけです。私が下校する頃には立派に酔っ払った母が家にいる。必ず殴られる。その癖、私の名前をしつこく呼んでは泣いて縋るのです。意味が分かりません。そんな家に帰ることが嫌だった私は放課後、必ず住宅前にある公園で一人ブランコを漕いでいました。現実を忘れるように色々と妄想が頭の中に湧いてきます。異世界転生なんて今ではありふれたネタも、その頃の私の頭の中にはありました。とにかく現実と向き合いたくなかった。あり得ないことを想像することで現実を忘れられる気がしました。この辺りからオタクとしての片鱗が見えていたのかもしれません。

当時好きだった歌を口ずさみながらブランコを漕いでる時間は、私にとっては唯一の安らぎの時間でした。

いつからだったでしょう、気がついた頃には必ず窓から「家においで」とI井さんのおばさんに声をかけられるようになっていました。

優しく穏やかなおばさんと過ごす時間は、虐待を受けている自分は幻なんじゃないかと思えるほどに幸せでした。

家にあげてもらうと、当然のように出てくるお菓子と温かい紅茶。そして隣には刺繍をしながら私の話に耳を傾けてくれるI井さんのおばさん。ここが自分の家だったらどんなに幸せなんだろうかと何度思ったかしれません。

二人の孫には何度も「俺たちのおばあちゃんだぞ!」と怒られましたが、それでも私に何かと構ってくれたあの二人は優しい子だったのだと思います。私は呼ばれるままに通い続けました。家にも学校にも居場所がない当時の私には安らぎの場でした。